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日々の雑記

「バフンうに」

「バフンうに」

和食レストラン「とんでん」の幟である。昨日ドライブしていて、目の端に入ってきた。

「そうだろうな」とは思いつつも、ずっと確認するのが怖いまま、この歳まできてしまったことがある。「バフン」もそのひとつだった。

わざわざカタカナ表記にしているが、まさか外来語や擬態語ではあるまい。ぜったい「アレ」だという気はしていた。日々、国語辞典を傍らに置いているにもかかわらず、確認した途端、食欲(うに欲)が失せてしまうのではないかという不安があった。

 

ばふんうに【馬糞海胆】
ウニの一種。殻はやや扁平な球形で、直径約4センチメートル。短いとげが密生する。全体暗緑色。生殖巣は最高級の雲丹うにとして賞味される。北海道南部以南に分布。日本特産種。マグソガゼ。
三省堂大辞林 第三版』

 

 やはり、馬の糞と書いて「バフン」だった。一説によると、馬の糞に似ているからその名が付いたとか。馬の糞を目にする機会もないので、どう似ているのか分からないが、あえて汚い名前を付けることで、豊漁を祈念したりといった呪術的な目的があったのかもしれない。「饅頭怖い」みたいな感じで。

ちなみにフンは糞の音読み。和語としては「くそ」が古くからあった。「くそ、まれ……」といった表現が古事記にも出てくる。となると、「おまる」などは、いまでは使わなくなった「大便をする」意味の動詞「まる」が残っている貴重な言葉なんだなと思う。
「ねこばば」の「ばば」も糞の意味。こちらは幼児語とのこと。では、「うんこ」はというと、

 

うん‐こ
(「うん」はいきばる声。「こ」は接尾語) 大便をいう幼児語。くそ。うんち。
※咄本・寿々葉羅井(1779)牢人者「みんなこいヱ、祭がうんこしてゐる」 〔一茶方言雑集(1819‐27頃)〕
小学館『精選版 日本国語大辞典

 

 1819年頃の用例が掲載されている。意外に古くから使われていたようだ。この際だから、もうひとつ。

 

うん‐ち
大便をいう幼児語。うんこ。
※木の上の生活(1969)〈安岡章太郎〉「寝る前には忘れずにウンチをするんですよ」
小学館『精選版 日本国語大辞典

 

 「うんこ」よりも「うんち」のほうが新しいということでいいのかな。でも、「うんこ」を「うんち」と語尾変化させた人、すごいなと思う。「んこ」より「んち」のほうが言いにくいから、楽に流れたわけではなく、おそらくだけど「こ」という音に付随する「硬さ」が自身の大便の様態とは合わなかったんだろうなと思う。かくいう私も、小さい頃、「うんこ>うんち>うんにょ」と語尾を変えつつ、大便の硬さを表現していた。幼児語というか、幼児の発想は侮れない。

「テクシー」

てくシー
(「てく」は「てくてく」の略。「タクシー」をもじった語で「テクシー」と表記) 自動車に乗らないで、てくてくと歩いて行くこと。〔訂正増補新らしい言葉の字引(1919)〕
(精選版『日本国語大辞典』)

 

20代後半の頃、辞典編集アシスタントをしていたのだけど、この言葉が特にその頃の中でも記憶に残っている。たぶん「うまいこと言うなあ」という感想と、「おやじ的発想だなあ」という感想と、ダブルでトップレベルだったからだと思う。

 

が、日国で調べてみると、思った以上に「古い」言葉だった。「おやじ」どころではない。「ひいおいじいちゃん」が言ってたであろうギャグだった。日国は初出を拾っていると思われるので、1919年には流通していたことになる。1912年に本家のタクシーが日本での営業を開始したということだから、その当時での「近頃流行のタクシー」をもじった大正時代のギャクといえる。

 

確かに、このことばを生で使った人に、私はいまだ遭遇していない。が、死語とするにはなんとも惜しい言葉ではないか。すきあらば、私が使って、細々とでも息を永らえさせたいと思っているのだが、なかなかそのタイミングがない。せめて生きているうちに一度使って、若人の記憶に「令和の時代、テクシーを使っていた人がいる」を埋め込みたいと思っていたのだが……。

 

話しは飛ぶが、最近、韓国語を勉強し始めた。韓国語で「タクシー」は、

택시

発音は「テクシー」と言う。あ、私、いま、「テクシー」って言ったよね?となにげに感動している。

 

もう少し、韓国語が上達したら、日本語の「テクシー」についての薀蓄を語れるくらいになりたいと思う。

「ぼっと」

玉出身である。

ちなみに、今も埼玉に住んでるし、実は埼玉にずっと住んでいる。

先日、ふと、小さい頃、友達と遊んでいて、よく言ってたことばを思い出し、手元の辞書を引いてみた。だが、ない。どこにも、ないのだ。

埼玉っ子は、自分が共通語を話していると思っている。

まあ、群馬や栃木との県境近くに住んでいた高校の同級生なんかは、訛がきついなと思わなくもなかったが、しかし、少なくとも大宮に電車で10分という場所に住んでいる私が話している言葉は、NHKのアナウンサーのしゃべる言葉と一寸の違いもないと思っている。

なのに、ないのだ。おかしい。それはこんな言葉だ。

「わざとじゃないよ、ぼっとだよ」

 この「ぼっと」が辞書に立項されていないのだ。なぜだ。

ちなみに、この意味は、文脈からも察するように「わざとではない、故意ではない」という意味で、「悪気がないんだから、大目に見てよ」という気持ちをこめた言い方だ。

たぶん「ぼーっと」が語源ではないかと思う。しかし「ー(おんびき)」は入らない。

 

言葉は生きている。紙にピン止めされるのは、その中のごくわずかだ。辞書に載っていないということは、多くの場合、「方言」である可能性が高い。そこで、ネットで「わざと、ぼっと、方言」で検索したところ、群馬、茨城、福島の人たちが「ぼっと」を自分たちの方言と認識しているらしいことが分かった。

ここで私も証言しよう。「埼玉でもそれ言いいます!」

つまり広く北関東で使われていることばなのではないだろうか、ということが今のところの追跡結果。

そして、おそらく、群馬、茨城、福島の人たちがそれを自分たち特有の「方言」と認識しているのに対して、埼玉県民はそれを「共通語」として認識しているのではないだろうか。

同じ勘違いでも、埼玉場合、そのベクトルが極めて痛い。そういうことではないだろうか。

「冷首」

辞典編集という仕事柄、日がな一日、辞典とにらめっこしていると、「うわー、すごいのが釣れた!」と釣り糸がぴーんと張る瞬間がある。今日の釣果はこれ。

 

ひえくび【冷首】

《名》自分が討ち取った相手ではなく、すでに死んでいた敵から斬り取った首。

(精選版『日本国語大辞典』)

 こういうことばに出会うと、日本語の造語力ってすごいなあと思ってしまう。そして、時代が移り、人の生首など日常にない現代においても、「冷首」と言われると、「うまいこと言うなあ」と感心してしまう自分がいる。なんでだろう。

この冷首には、なにかこう冷笑の気配がある。

「あいつはよお、威張っているがよお、生きてる人間の首を斬ったことがねえんだ」

「いっつも、死んだ輩の首を切り取って手柄にしている」

「ぜーんぜん違うだろ。生きた人間の首を斬るっていうのはな。そりゃ、ぜーんぜん違うんだよ」

そんな雑兵の会話をついつい思い浮かべてしまう。どう違うが分からないけど、違うということだけは、「冷首」ということばの存在が示しているのだ。

「突」

「突」という漢字の成り立ちは、

犬が穴から急に出る。「犬」が「穴」の中にいるようすから構成されている。

(『漢辞海』第三版アプリ)

とのこと。

もともとは「大」は「犬」と書いた。

昔の人にとっての犬というのは、おそらく私たちにとってのペットとしての犬よりも獰猛な印象があるだろうから、「穴から急に犬が飛び出す」という状況は、くすっと笑ってしまいそうなほほえましいものではないのかもしれない。

でも、やはり現代の感覚だと、漢和辞典で成り立ちを調べて、「か、かわいい」と思ってしまう。

以前飼っていた犬(桃)は、私と「かくれんぼ」ができた。もちろん、典型的な「頭隠して尻隠さず」のような隠れ方で、私がわざと見えないふりをしないと成り立たない遊びだった。

「あれ? 桃がいない。桃、どこかなあ」

と言うと、犬が「息をひそめる」瞬間の、その息遣いが聞こえてくるのだ。だが知らんぷり。

見当違いな場所を覗いたり、引き出し開けて、「桃?」と言ってみたり。そんなことをしたあとに、ようやく桃を見つける。桃、待ってましたとばかりに、大喜びで机の下から飛び出す。

 

まさに「突」だ。

 

ちなみに、猫のかくれんぼは犬とはまた別。猫の方から「わーっ」と驚かせようとする。穴から飛び出すときも、お尻をふりふりして勢いをつける。むしろ「穴」+「猫」という漢字があったら、そっちの方が「びっくり」度は高いと思う。